三浦 博
HIROSHI MIURA
みうら ひろし
担当の院
- 東京目白院
- 横浜センター南院
プロフィール
- 出身地
- 福島県二本松市
- 好きな食べ物
- お寿司
- 好きな言葉
- できるできる必ずできる
やる気があれば必ずできる
経歴
福島県出身の3人の子の父。東日本大震災後、悩まされた足底筋膜炎を機にFMT整体へ通院。
完治後、患者という立場からセラピストとして新たな人生を歩む。
あれから10年変わらず「患者さんが家族だったらどうするか」を信条として施術を行っている。
ストーリー
原動力は「家族の笑顔」
私は福島県の田舎で呉服店を営む両親の元に長男として生まれました。小さな頃は病弱だった私を両親や祖母は、過保護なほど大切に育ててくれました。
その影響もあってか、引っ込み思案の内弁慶。太っていて運動は苦手で、少年ソフトの県大会では、打てば転んでトリプルプレー、守れば3連続エラーと、チームを敗退に導く主犯となったこともありました。応援に来ていた家族の気持ちを思うと切ない思い出です。
両親や祖母は、私の健康をいつも気にかけてくれました。
その理由は後で知ったのですが、父が薬害で身体を壊していたことと、病弱だった私も当時「大腿四頭筋短縮症」薬害訴訟で問題となった注射を頻回に接種していたためでした。
幸い、薬害の影響は見受けられず、家族の笑顔が原動力となっていた私は、中学では寝る間も惜しんで勉強とバスケに打ち込み、部活動ではエースになったり、勉強も含めて校内では怖いもの知らず。この体験から「自分は何でもできる」という自信に満ち溢れていました。
しかし、そのような状態は永遠に続くはずもなく、次第に親や窮屈な田舎への反発が生まれました。今思えば、成長に必要な反抗期だったのかもしれませんが、その頃から長い間支えとしてきた「家族の笑顔」という目標を失ったことによる混乱が生じたのだと思います。
高校卒業後は料理人となる夢を持っていましたが、当時の楽しい生活を手放すことへの恐れから、惰性で地元の裁判所に就職。もちろん夢や目標はなく「こんなはずじゃない」と思う毎日に1年目で辞表を提出しましたが、再び、変化が怖くて辞表を撤回。
割り切ったふりをして、でも、本気になれるものを探して様々なことを試してみるも、どれも中途半端。
それでも結婚後3人の子の父となったことを機に、志を新たにして法律の国家資格を取得。より高みを目指して、公私ともに充実した毎日を送っていました。
FMT整体との出会い
そんな私に訪れた転機。東日本大震災です。
原発の事故で家の周囲の放射線量も高くなり、実際に測ると国の発表の数倍以上の値が出る場所もザラでした。家族の健康が心配で、そこから逃げたい気持ちでした。国への不信感もつのり、何を信じ、何をしたらいいのか分からなくなりました。
薬害にあった家族が私を案じていた気持ちが、今更ながら分かるような気がしました。
除染をしたり、夏休みに疎開をしたりとできることはやりましたが不安は尽きず、子どもたちへの贖罪か現実逃避か毎日20km以上走り、酒の量も増えていきました。
そんなストレスがたたったのか、ある日のランニング中に右足の裏に激痛が走りました。
整形外科では全治2週間との診断でしたが、湿布、インソール、マッサージ、鍼灸、整体と評判の治療院でも、良いと言われることを色々試してもまったく治る気配はなく、逆に痛みは増すばかり。自分の体すら信じられなくなっていくようでした。
そんな時に出会ったFMT整体のホームページ。
そこには「やってはいけない治療法」や「治らないなら方法が間違っているかもしれない」などと書いてあり、常識とは真逆の内容が羅列されているのです。
一方、歯の浮くような良いことばかりが書いてあり、職業柄も手伝ってか、そこに怪しさも感じたのですが、同時に本当だったらどんなに嬉しいことかと、一縷の望みにすがりたい思いで「足底筋膜炎セルフケアDVD」を購入しました。
9割疑いの気持ちではじめたセルフケアでしたが、寝起きの一歩目の激痛が嘘のように半減。驚きと嬉しさ、全身を暖かく包む安堵感と目の前が明るくなったような開放感は今でも鮮明に覚えています。
自分の身体で感じた事実は疑いようがありません。信じられるというのは幸せだと思います。その後、福島県から横浜センター南院まで13回通院し完治となりました。完治後はフルマラソンで自己ベストを更新するまでになりました。
そして今では、患者であったFMT整体で施術家をやっている訳ですから、本当に人生何があるかわからないものです。
患者さんは「家族」
自分や家族の健康のために学びはじめた整体でしたが、セラピストになって10年。一人目の患者さんをみた時から今までずっと、いつも心がけている言葉があります。
それはFMT整体に出会った時、いぶかしく思いながらも本当は嬉しかった「患者さんが家族だったらどうするか」という言葉です。
当時の気持ちは今も忘れません。むしろ患者さんと出会うたび、より強く思い出されます。
自分と同じ年代の患者さんは私の患者時代、親世代の患者さんは私の父母、若い方は私の子どものように。そう心がけ、家族にするのと同じようにアドバイスと施術をしています。
ですから、最後まで面倒をみたいと思いますし、仮に難しいと判断した場合、長引かせることはありません。
最善最短で完治を目指すのは当然ですが、そのために必要なら、家族にそうするように、時に厳しいお話をするかもしれません。
だからこそ、あなたのお気持ちを遠慮なく聞かせてください。理想の未来が訪れるよう、一緒に考え前向きに真剣に取り組んでいく、その姿勢を大切にしています。
分からないことや不安なことがあったら、いつでも私にお聞きください。
当たり前の日常を取り戻せるよう一緒に頑張りましょう!