田中 学

田中 学(たなか がく)

プロフィール

出身地長野県諏訪市
好きな食べ物カツカレー
好きな言葉10000回だめでかっこ悪くても
10001回目は何か変わるかもしれない

経歴

学生時代に腰を痛め、リハビリではじめたウエイトトレーニングにはまる。トレーナーの資格をとったが、友人の体の痛みを改善できなかったことがきっかけとなり、整体の専門学校で勉強。25年勤務した市役所を退職し、意気揚々とセラピストデビューしたが、半年もしないうちに経営危機に、「もう、だめか。」と思った時、偶然FMT整体に出会い一から学び直す。横浜と東京で6年間セラピストとしての経験を積む。父の脳梗塞を機に実家に戻り、現在、FMT整体長野出張所を担当している。

ストーリーSTORY

第2の人生。目標を失って出会ったもの

第2の人生。目標を失って出会ったもの

「今やらなきゃ、死ぬとき後悔する!」自分の年齢と体力を考えた時、このタイミングを逃したら後はない、そう思った私が市役所を辞めることに躊躇はありませんでした。

以前の私は、パワーリフティングという競技スポーツで全日本選手権の出場権を得られ、打ち込めるものがあったからこそ、仕事への活力にも繋がっていました。しかし、ある時選手生命を絶つような背中のケガに襲われました。目標を失った私は、何をするにも情熱が湧かなくなったのです。

そんなある日、友人からスポーツでのケガの相談を受け、いろいろ調べてみると病院での治療ではなく、整体の技術がそのケガに効果的であることを知りました。体や筋肉に関しては、まだ興味があった私は「こんなことを仕事にできたらいいなぁ。」と整体師を職業として考えるようになりました。パワーリフティングをやっていた時のような情熱が、友人の相談を通して再び湧いてきました。

それから、すぐに東京にある整体専門学校に入学して、毎週末往復400kmの通学、夢を叶えるための勉強が始まりました。

整体を習い始めの頃、父は、「整体で子供を育てて食べて行けるのか?」と言い、母は「退職してからでも遅くはないかい?」と遠回しに転職を反対していましたが、妻は違いました。少し前にお父さんを病気で亡くしていた妻は、「人生いつどうなるかわからない、悔いのない生き方をしなきゃ。」ということをよく口にしていたからでしょうか、一貫して「やりたいことがあればやれば。」と言い続けてくれました。

東京への通学も10年が経ち、子どもの手が離れ、整体師への転職が思い描けるようになりました。いつしか父と母も私の施術を受けることを楽しみにしてくれるようになり、「それほど、やってみたいのならやってみたらいい。」と今度は穏やかに言ってくれるようになりました。26年間務めた市役所を辞め、順風満帆の中、整体師として第2の人生のスタートを切りました。

情けない自分

情けない自分

妻にも手伝ってもらい夫婦ではじめた整体院。当初、友達や職場の同僚や親戚などが来てくれたおかげで順調だと思われましたが、その状況は開店祝いのようなものだったらしく、半月もしないうちにベルが鳴らなくなり、電話機が壊れたのかと疑うほどでした。チラシをまいたり広告に載せたりして、ようやく来た患者さんはリピートせず、技術の未熟さを感じ、日に日に退職金が減っていく通帳を眺め、ため息をつく毎日でした。まさか半月前、こんなに情けない自分がいることなど想像もできませんでした。

「誰か俺を助けてくれ。」そんな思いでインターネットを見続けて、偶然、Youtube動画で丸坊主頭の前腕が妙にたくましい整体師、FMT整体創始者の高瀬元勝を目にしたのです。高瀬の何とも言えない自信のある言葉に突き動かされ、「自分を救ってくれるのはここしかない。」と思い、FMT整体セラピスト養成学院の締め切りを見るとなんと明日。「大丈夫。今からだったら間に合う!」そう思ったら猪突猛進。眠い目をこすりながら深夜まで格闘し入学願書を提出しました。

その後、FMT整体に面談に行き、高瀬から「家族に、たんかを切って整体師になると言ったからには、頑張らないといけませんね。」と優しく声をかけていただいた時、養成学院に入れなくても一人でも頑張れそうな気がしました。

しかし、帰りにもらったFMT整体発行誌の中にあったスタッフの集合写真を見た時、ここに関わりたいという思いが一層強くなりました。年齢層は20代~40代とまちまちでしたが、皆とても良い笑顔で映っていたからです。その表情からは、仲間としての結束や一人一人の自信を感じました。「何だかいいなー。」「俺もこのメンバーに加わりたい!」そう思ったからです。

しばらくして、合格通知をもらった時は「これで命がつながった!」という安堵の思いで、開業以来、久しぶりに熟睡することができました。

技術よりも大切なもの

技術よりも大切なもの

期待を膨らませて始まった養成学院は、思っていたものとは正反対で困惑しました。

なぜなら、即効性のある技術を徹底的に習うものだと思っていたのに、徹底的にやらされたのは受付だったからです。「何で~接客?俺は整体師になるために入学したのに?」と疑問を持ちながらの研修でした。しかし、舐めていた受付は思うようにできず先輩からのダメ出しの毎日。40歳半ばになって、息子くらいの年齢の先輩から言われる指摘は、的を射ているだけに心に刺さり辛くなりました。

そして、ある時患者さんから「ここに来て、先生やあなたと話すと気持ちが楽になるわ~。」「これからも、よろしくね。」と言われました。この時、痛みは施術の技術ではなく言葉でも癒されることを学び、受付は問診であり施術であることを学びました。

今もこうして整体師としていられるのは、私一人の力では到底有り得ませんでした。

市役所を辞めて夫婦で始めた整体院がすぐに立ち行かない状態になったり、FMT整体の分院の売り上げが落ちて普通に生活できないほどの危機にさらされたりしたことが今までにありました。でも、その度に、自分に格好つけず恥や外聞も捨てて自分をさらけ出して一歩踏み出すと、必ず手を差し伸べて助けてくれる仲間や家族がいたのです。

皆に助けられ、横浜センター南院や東京大崎院で施術を続けることができ、いつの間にか延べ13,000名の施術をすることができました。

一歩一歩進むことで繋がっていく縁

一歩一歩進むことで繋がっていく縁

何かを新しく始めるということは、リスクも背負うことになります。でも、整体師になり患者さんからたくさんの感謝の言葉を頂けるということは、挑戦なくしては体験できないことでした。

人生における財産とは、お金も大切ですがきっと豊かな経験ではないかと思っています。豊かな経験とは、例え、苦しみや悩みがあったとしても、諦めず前に進むことで得られる沢山のものを、私はFMT整体で実体験を通して学ぶことができました。

不安がまったくないわけではありませんが、これからも留まることなく前進していきます。

どんなに険しい道でも、一歩一歩、足を運んでいけば、その先にはきっと今より素晴らしい景色が待っているはずです。

これからも、整体師を通して経験を重ね良き縁を大切にして挑戦し続けていきます。

タイトルとURLをコピーしました